法話

「柴田賢龍密教文庫」が提供する人生ナビゲーション

第一回 夜空と人生

毎日八百年も前の文献史料に記された事柄に付いてアレコレ考える生活をしていると、最新の自然科学上の発見や思想に関するニュースを知るのは大変楽しく亦刺激的でさえあります。ごく最近もニュートンの「万有引力の法則」について、引力は根本的な力では無くより根源的な熱力学的エネルギーの「副産物」のようなものであると云うオランダの学者の説を新聞で読んで非常に興味を抱かされました。

しかし数学や物理学に疎(うと)い私のような人間にとって最も楽しいのは、そのような高度な抽象的理論より恐竜を始めとする絶滅した古生物の復元映像や、最新の巨大望遠鏡がとらえた未知の宇宙空間の画像を見る事です。私は中学生の時に小遣いをはたいて望遠鏡を買い、しばらくの間家の物干し台で月や土星・木星などを見て熱中した事がありましたが、真っ暗な空間の中に漂って白く輝く土星のリングを始めて見た時の喜びは今でもよく憶えています。それだけに近年続々と発表される天体画像には非常に興味をそそられます。

普通の望遠鏡では何一つ見えない夜空の小さな暗黒の空間を最新の巨大望遠鏡で覗(のぞ)いてみると、驚くべき事にそこには何百何千という銀河(星では無い)がひしめきあっています。それは太陽系から何十億光年も離れた遠い、遠い世界であり、その一つ一つの銀河は何億・何十億という無数の星々(太陽)から出来上がっているのです。大乗仏教の経典にはよく無量無数の仏の世界が存在すると説明されていますが、そのような表現も非常に謙虚でつつましく思われる程、実際の宇宙空間は想像を絶する広大無辺で複雑な組織を有しているのです。若し古代インドの哲学者が現代天文学の知識を身につけたら、一体どのような深遠で計り知れない思索の体系を作り上げるでしょうか。

しかし宇宙空間がいかに巨大であろうとも総ての存在は「空」であると仏教は教えています。宇宙がこのように途方も無く巨大で複雑であるのは「空」なる原理が働いているからなのです。宇宙空間に漂う無数無量の微細な塵、これが集まって光り輝く星と成り、又惑星が形成されて生命が誕生する。これは実に霊妙・不可思議な事と言わざるを得ませんが、こうした事が起こるのは全ての現象界に「空」なる原理が働いているからです。そうです、『般若心経』の「色即是空、空即是色」の世界です。

『般若心経』はその前に「五蘊皆空」と言っていますが、五蘊すなわち色・受・想・行・識の中の受想行識は心の働きに関する事ですから、簡単に言ってしまえば色(外の世界)と心(内側の世界)はどちらも共に「空」である・・・大宇宙と個人の心は同じ「空」なる法則に基づいて活動していると述べているのです。私たちの精神と、宇宙の塵が星に成る活動とは、同じ作用の違った現れ方であると云えるでしょう。

そのように考えて夜空の月や星を眺めると何となく親近感を覚えたりします。私たちも昔、昔は宇宙の塵でした。そして遅かれ早かれいつかは宇宙の塵に戻っていくのです。人の一生は過ぎて見れば本当に早いものです。私が教えを受けた老僧はよく、「八十歳を過ぎた今になって小さい子供の頃の事がつい昨日のように感じられる」と言っておられました。自分の一生を振り返って後悔しない生き方とはどのようなものでしょう。それは一日々々をよく生きる、力を出しきって生きるという事に尽きるでしょう。

第二回 虚空蔵菩薩の智恵

皆さんは虚空蔵菩薩という仏様をご存じかと思います。大抵の方は名前ぐらい聞いた事がおありでしょう。この仏様は左手を胸の前に仰げてその上に如意宝珠を置いています。この如意宝珠は至高の宝石です。一切のヨキモノが総てその中に収められています。また右手を膝の前に仰げて、如意宝珠が生み出す一切のヨキモノを人々に与えようとしておられます。世界のどこまでも限りなく広がる空間すなわち虚空が際限無いように、尽きる事のない無限の宝がこの如意宝珠に蔵(おさ)められているのです。

 

この虚空蔵菩薩が与えようとしておられる無尽蔵の宝について金剛界密教の立場から考えてみましょう。それで最初少しだけ金剛界曼荼羅のお話をしなければなりません。金剛界曼荼羅は一つの巨大な円輪です。その中は中央と四方と合わせて五つの円輪に分かれています。中央は大日如来です。大日如来は宇宙の根本生命ですから、総ての生命(エネルギー体)はその発現であり、その延長です。さて向かって左側の円輪は宝生(ほうしょう)如来です。この仏様は「平等の智恵」を表しています。その平等の智恵を人間界で実践する仏様が今の虚空蔵菩薩なのです。

 

「平等」とは具体的には何の事でしょうか。それは「自分と他人は一つ」と云うことです。私たちの日常生活は自分乃至家族と他人を差別する事で成り立っています。私たちが必死で努力するのは他人に負けないため、他人より少しでもましな生活をするためです。より豊かな生活、より快適な環境を求めること自体は生きていく上で当然の事です。しかし物が豊かな生活は必ずしも幸福な生活を意味しません。国民所得が増大するにつれて人口当たりの精神病患者の割合も増加するそうです。豊かになれば心の苦しみが増えるのです。それはどうしてでしょうか。

 

人間には誰しも向上心が備わっていて、人一倍努力して達成感を味わおうとします。それは自然なことです。しかし努力の成果を自分一人で独占しようとすれば、それは「悪」と成ります。自分で苦労して手に入れたものを自分の為だけに使って何が悪いのか、と思われるでしょう。そもそも善悪とはなんでしょうか。他人の為になり社会に貢献する事が「善」です。他人を損ない社会の役に立たない行為は「悪」です。私たちは個人であると共に一体です。それは道理なのです。

 

何千万円もするような車、宝石をちりばめた数百万円の腕時計、そうした物を手に入れて得られる喜びはわずかなものです。それに対して生活費の一部を削って社会に貢献する活動に寄付すれば心に大きな喜びと充実感が得られます。人間はそのように出来ているのです。他人の為に役立ったと思える時、その時にだけ真実の満足感が得られます。御経(おきょう)の中にはジャータカという物語が沢山あります。それはシャカムニ仏の過去世(かこせ)の物語です。仏は過去世の中で菩薩として修行していた時に、数限りない自己犠牲の行いをしました。その成果が現世に出現し、遂に覚りを証して仏になる事が出来たのです。この物語は仏教の修行の中では、他人の為に尽くすことが最も重要である事を教えています。

他人の為に尽くす事は、自分と他人が「平等」であると実際に示すことです。最初に述べた虚空蔵菩薩と一体になる事です。虚空蔵菩薩の手の平の上で輝く至高の宝石を手に入れる事です。



第三回 目前の一事に最善を尽くすこと

仕事と云うのは最初は簡単に思えても、やっている中に色々と面倒な事が出てきてついつい後回しにしがちです。後でしよう、明日しよう、来週になって時間に余裕が出来たら仕上げてしまおう、等々と思っている中にスッカリ厭(いや)になってしまいます。こんな厭になった仕事が増えてきたらたまったものではありません。一見簡単に見えてもその実世の中の事はすべてが複雑に絡み合っていて、一方を立てれば他方が立たずという具合で仲々やり遂げるのが難しいものです。

私のように古い時代の寺や僧侶の事を研究していると、その当時の政治社会制度や慣習といった一般的な事柄の他にも個々の寺院とその荘園の歴史や恒例行事、僧侶の出身家族と姻戚関係など、正確な知識に到達する為には驚くほど様々な分野の史料や書物を読む必要があります。大抵の場合、検討を加えて資料を整理するスピードより新たな参照資料の増加速度の方が勝っていて、見る見るうちに机の上は資料の山になり果ててしまいます。結局のところ苦労して収集した史料でも十分な検討を加えることが出来ないまま部屋の片隅に積み上げてしまう事が多々あるのです。

為すべき事はあまりに多く行く手に立ちふさがる巨大な山のようであり、非力な自分には到底その山を超えられるとは思われない。それでは茫然自失、手をこまぬいてボンヤリしているかと云うとそんな事は全然ありません。私には取るべき態度、方針と云ったものがシッカリとあります。それは今ま手掛けている目前の仕事に全力を費やすことです。幾ら時間がかかっても出来るだけ丁寧に手を抜かずにやり遂げるように何回も何回も自分に言い聞かせるようにします。今までの経験から、少なくとも自分の場合には、それが一番大きな成果を生み出すと確信しているからです。

とても出来そうもない事を無理にしようとして疲れ果てて止めてしまうのは本当に無益なことです。自分が出来る事に全精力を傾注して一つ一つ仕上げていけば、成果が徐々に積み上がるばかりでなく、知識も増え技量も上達して将来より大きな仕事に取り組む準備が知らず知らずに出来てきます。今自分の目の前にある一事に最善を尽くすこと、是が人生を無駄にしない秘訣です。

第四回 与える事

京都の清水寺を出て右に八坂塔(やさかのとう)を見ながらユルユルと坂を下っていくと鴨川に着く前に六波羅蜜寺と云う古刹があります。西国三十三ヵ所観音霊場の札所として、又た空也上人像や平清盛像などの文化財を蔵する寺として有名な所です。此の一帯は古くより「六波羅」と称して平家一門の根拠地であったのですが、平家が滅んだ後鎌倉時代には幕府の警視庁とも云うべき六波羅探題が設置されていた事でも知られています。

さて六波羅蜜寺の「六波羅蜜」とは何かと云えば、迷いと苦悩の荒波を渡って彼の覚りの岸に到達する為には六つのコトを行いなさいと教えているのです。その六箇の最初は「檀波羅蜜」です。これは困っている人には与えなさい。与えて何の見返りも期待しないようにしなさい、と教えています。何を与えるのかと云えば普通はお金です。それではお金の無い人はどうすればよいのか。お金でなくても「無財施」と云って、やさしい気づかいや微笑みなど他人の為に尽くし与えることは幾らでもできます。しかし「檀波羅蜜」すなわち「布施」とは元来自分の生活資財の一部を削って与えることです。

或る人が昼ごはんに食堂の750円のBランチを食べようと思っていたところ、通りがかりのお堂の中の地蔵菩薩の立派な姿に惹かれて何となく手を合わせ百円玉をさい銭箱に放り投げた。此の人はお金に余裕が無かったのでBランチを止めて650円のCランチで我慢する事にした。食べてみて何ておいしいんだろうと驚いた。こんなにおいしいものは今まで食べたことが無いと感じたし、世界には今も何億もの飢えて苦しんでいる人達がいる事を考えると自分は何て幸せなんだろうとも思った。

此の人は檀波羅蜜の行(ぎょう)を成就したのです。世間には商売がうまく行くように、自分の持っている株の値段が上がるように等と願ってさい銭箱にお金を入れる人が多くいます。しかしこれは檀波羅蜜の行ではありません。仏や神に対して自分の利得が増えるように頼んでいるだけの私利私欲の行いです。

六波羅蜜の最初に檀波羅蜜が置かれている事には重要な意味があると思われます。二番目の行は「戒波羅蜜」と云い、これは仏の戒めをよく守るようにと教えています。仏の戒めを守る事は困難であっても結局はその人の利益につながるからです。しかし上辺(うわべ)の形だけ戒めを守っても大きな成果は期待できません。「与える」ことで育まれた豊かな心を支えにしてより大きな世界を楽しみ生きるように心がけて下さい。

第五回 癖と個性

無くて七癖、と云います。その人らしさ、自分らしさと癖とは一体であると思われています。しかし癖は生まれた後で身に付いたものです。生きて行く中で徐々に作られたものです。癖とは一種の偏りです。「良い癖を付けなさい」と云う人もいますが、「良い習慣を」と云い直すべきでしょう。癖は元来良いものとは考えられていないのです。

 

それに対して個性と云う言葉は良い意味で使われます。「あの人は個性的だ」と云う時は褒めている訳です。「個性を磨く」と云いますが、「個性を身に付ける」とか「個性を作る」とはあまり言いません。個性は本来その人に備わっているものです。DNAです。自分をゴシゴシ磨いて癖の偏りを取り除いてやると個性が現れてくるのです。

 

例をあげて話しましょう。自分は怠け者だと思っている人がいます。「大体俺の家は代々怠け者なんだ。遺伝子だ。」と云う人もいます。しかしそれはその人の個性では無い。両親の教育、生まれ育った環境、友人先輩の影響、そして何よりも自分自身の考えと行為によって身に付いた「癖」に過ぎません。癖と長年付き合っていると確かにその癖は自分自身のように思えてきます。ところが実は癖があるために本当の自分が分からなくなっているのです。生来の怠け者はいないのです。癖を取り除いてやった時に初めて本来の面目(めんもく)、個性に気がつきます。その人は実には精一杯努力する事それ自体に満足を覚えるタイプの人間かも知れないのです。

 

かく云う私も一時期怠け癖とずいぶん仲良くしていた時がありました。物体が地球の引力に引かれて落下するように、人は自分自身を放っておくとドンドン怠け癖に引き寄せられます。是は人間と云うのはそのように出来ているのです。怠ける事は気楽で楽しいのです。しかしそのような楽しみ・喜びはチッポケなものですし、亦いつまでも続くことはありません。やがては喜びより苦しみの方が遥かに大きくなってしまいます。是もまた人生の真実です。

 

私はと云うと若い頃には、世間に横行する大義名分や主義主張が中身の無い見せかけだけのものに思われて、苦労して頑張る程の事は何もないと考えていました。今から思うと若くて体力もあり記憶力や吸収力が抜群の時期に、実に貴重な時間を無駄に費やしてしまったものだと残念でならないのですが、人生と云うのは往々にしてこういうものでしょう。そういう訳で、何事もあまり努力しないでノンビリやろうと決めていたのですが、徐々に知識や技術を習得して工夫を凝らすおもしろさが分かって来ました。また他人がどのように考え思い行動しているのか、それはどうでもよい事で、要は自分が問題なのだと気がつき始めました。それからは自分を肯定的に見るようにもなりました。

 

ところで問題は、心に気づいて新しい自分(実は本来の自分)が登場し始めても今までの自分がそれの邪魔をして、仲々思うようには古い自分と決別できない事です。身に付いた癖は第二の天性であって、それは肉体と神経に浸みこんでしまっています。ですからあまり無理に悪い癖を改めようとしない方がいいのです。実はスポーツであれ、芸道であれ、メカニクスであれ、技術の体系というのはそれ自体が長年にわたる合理性の追求から生まれたものであり、悪い癖を排斥して無くす性能を有しています。だから優秀な指導者の下で何か技術の習得に励むことが出来れば、おのずとその過程で新しい自分すなわち個性に目覚める事になるでしょう。

 

そのような技術のなかでも仏教の修行法というのは専ら悪癖を除いて本来の自分を見出すために開発されたものです。しかし大分と話が長くなりました。また回を改めて近い中に修行の話をしましょう。

第六回 祈願とご利益

人生には山あり、谷あり。運がいいと思うこともあれば、何て運が悪いんだろうと思ってガッカリすることもあります。神や仏にすがって自分の力が及ばない所を補ってもらおうとするのは人間の自然な心情と云うべきでしょう。私も高校受験の時に父親に連れられて京都のさる天満宮にお参りし、絵馬を奉納して祈願した事を覚えています。

 

それでは一体神や仏に祈願して本当にご利益があるのでしょうか。わずかな金額を布施して商売が繁盛したり、病気が治って健康になったり、素敵な異性に巡り合って結婚したり出来るのでしょうか。また寄付する金額が多ければそれだけ効験が増すのでしょうか。勿論こうした疑問に対しては無数の考え方、答え方があります。

 

そもそも神や仏が人々の願いに応じて利益(りやく)を施すとすれば、それは一体どうしてなのでしょう。どういう理由があるのでしょう。僧侶や祈祷師など人間は金品の贈与を喜ぶでしょうが、仏や神が現金を見て心を動かされるとは考えられません。また仏の慈悲は広大無限で、世界中のすべての人々をまるで自分の一人子(ひとりご)のように愛し慈(いつく)しむと言われていますが、それではどうして祈願する人を特に大事にするのでしょう。

 

人は外側を見て心を動かされ、神仏は内側を見て感動します。自分中心の考え方や行動を反省し、自分が無数の人々に支えられて生きていると自覚した時に初めて仏の世界と感応するのです。仏教の修行では懺悔(さんげ)と云う事を非常に大事にします。懺悔の心を伴わない修行はいくら厳しいものであれ、それは修行ではありません。ただのスポーツかエクササイズです。また真言宗の行事法要では必ず「五悔(ごかい)」という詩文を唱えます。五悔とは、今まで心から仏法僧の三宝に帰依信服することが無かった、他人の優れた素質や行動に対して共に喜ぶことをしなかった事など五つの懺悔を言います。懺悔(さんげ)に徹する事によって自らの本心に気づき、菩提心が目覚める機縁になると考えられているのです。

 

又大きな幸運が人を破滅に導いた例も枚挙にいとまが無い程あります。或る人が聖天(しょうてん)を祀る寺院に出かけて商売繁盛を祈願したら、たちまち今まで取引が無かった会社から大口の案件が舞い込んで商談が成立した。此の事をキッカケにして事業を拡大し商売は順調に推移するかに見えた。ところが予期せぬ不況の為に業績が急に落ち込み、事業の拡大が仇(あだ)となって借入金が返済できず倒産してしまった。結局、此の人の場合は商売繁盛を祈願して倒産の憂き目にあったのです。

 

しかし仏や神に祈願するのは良い事です。自分が何をしようとしているのか、本当に望んでいる事は何なのか、今の生活の中で何が問題なのか、そういう事をハッキリと自覚する手助けとなります。又願いが真剣であれば祈願する事によってそれだけ実現に向けて努力する意欲が湧いてくるでしょう。実現力が増大するのです。それは真剣に祈願する心と仏の加持力とが相応するからです。




第七回 出来る人と出来ない人

世の中には何をやってもよく出来る人もいるかと思えば何をやっても途中で投げ出してしまう人もいます。しかしこれは見かけだけの事です。出来る人は能力が高く、出来ない人は能力が低いと考えられがちですが、人間の能力というのは本来それほど差が無いものです。それでは実際には人によってその能力に驚くほど差があるように見えるのは何故でしょうか。

出来る人は自分の能力が低くて無能な人間だとよく知っているから出来るのです。出来ない人は必ず自分は他の人より能力が高いと思っています。少なくとも心の奥底でそのように思い込んでいます。先ず是がもっとも重要な点です。

自分の能力が低いと自覚した時には「自分は劣っているから人の何倍も努力しなければならない」と思うようになります。この思いが自分の内側に潜んでいる大きな力を引き出すのです。又た内心素直で謙虚になって是が本来以上にその人の能力を高めるのです。 

反対に自分は他の人より優秀な人間だと思い込んでいる人は「手抜き」をします。同じ仕事をするのでも自分は「他人より少ない時間と労力」で成し遂げる事が出来ると思うからです。更に突っ込んで考えると、

若し同じ時間と労力で同じ仕事しか出来ないのであれば、それは他人と自分の能力が同じである事を意味するからその様な事があってはならない。

という思いが心のどこかに潜んでいて、その人が全力で事を成し遂げることを妨げているのです。全身全霊を挙げて取り組むことをしないから結果は目に見えています。必ず失敗するか途中で投げ出してしまいます。その場合にも自分を納得させる言葉があります。それは、

自分は確かに失敗した。しかしそれは自分が十分な時間をかけなかったからである。その割には他の人と比べてよく出来たと思う。自分はやはり優秀なんだ。今度こそは全力で取り組んで周囲の人間を驚かせてやろう。

と云うようなゴマカシの言葉です。次回も必ず失敗します。それは困難な時、行き詰まった時、どうしていいのか分からなくなった時に「それでもやろう」という気力が出てこないからです。

以上の事から自らを励まし高める自尊心というものも、若し悪い方向に作用するとどうしようも無い程その人を駄目にしてしまう事が分ったかと思います。ところが此の自尊心、言葉を変えれば肥大化した自我とも言えるでしょうが、是は実に手に負えない存在です。力強く巨大なモノです。若い頃に読んだ弘法大師の本の中に、

世界の中で自我ほど高いものは無い。世界の中央に聳(そび)え立つ巨大な須弥山(しゅみせん)の頂よりも更に高い。

と云うような文章がありました。他人を見るにつけ自分を顧みるにつけ歳を重ねるごとに此の言葉の深い意味、真実性が実感される気がするのです。

第八回 子供時代の事

仕事に追われて毎日あわただしい生活をしていると子供時代の事が無性に懐かしく思い出される時があります。それは必ずしも現在の生活が不満であるとか、何か心配事があるとかで「子供は無邪気で悩み事が無くていいなあ」と思う訳ではありません。実際のところ、子供だからと云って心配事や悩み事が無いなんて事はないでしょう。私は今でもよく覚えていますが小学校高学年の頃に、

どうして次から次と悩み事が出てくるのだろう。いつか全く悩み事に煩わされない日が来るのだろうか。

と思うことがよくありました。それでも私もまた子供の頃の思い出が輝いて感じられ、その一方で今となってはその輝きを取り戻すのは難しいと悲しくなったりするのです。一体、このような懐かしさをもたらす大人の世界と子供の世界との差はどこにあるのでしょう。

一言で云えば、子供の世界は単純で大人の世界は複雑であるという事です。単純な世界で生きるとは時間を容易に支配できるという事でもあります。大人の世界は物事が複雑に絡み合い、行動にも様々無数の選択肢があって、成すべき事、決断すべき事が常に山のように行く手に立ちふさがり、而も過酷な時間の制約とも戦わねばなりません。このような状況の中で成功を収めつゝ精力的に生きていく事は本当に大変ですし、どうしても時間を支配すると云うよりは支配される事に成りがちです。この時間に追われるという意識が、そうでは無かった頃、つまり自身の子供の時代を懐かしい完全な世界として思い出させるのです。

して見れば、懐かしい子供時代を取り戻すのはそれほど難しくないかも知れません。要はする事を減らして時間に余裕を持つ事です。それは出来ない相談でしょうか。

 

第九回 死を意識する事

今日明日にも死ぬかもしれないと恐れおののく事は大変良い事です。

 

人は生まれた以上必ず死にます。そんな事はだれでも知っていると言われるでしょう。しかし実際には大抵の人は、自分が死ぬのは遠い先の事だと思っています。要は自分は死ぬことが無いと考えているのです。

 

人間と云うのはおもしろいものです。自分の実生活と直接は関係ない事柄に興味を持って熱中する癖に、人生の現実を直視するのを嫌がり考えようとしません。有名芸能人やスポーツ選手の恋愛・結婚に心をときめかせ、その不倫や離婚に目の色を変えます。その一方で自分が間違いなく死んでこの世の中からいなくなる事は他人事のように思って気にしないようにしています。しかし自分が死ぬことを意識し、それに気付いて真剣に考えることは非常に有益な事です。

 

若い時は誰しも思う存分に自分の人生を生きて思い残すこと無く早く死んでしまいたいと思います。それは裏を返せば心の奥底で自分だけは死ぬはずが無い、何時までも生き続けるに違いないと考えているからです。歳を重ねて友人知人の訃報(ふほう)が舞い込むようになるとさすがに「死」が現実味を帯びてきます。一日でも長く生きたいと思うように成ります。何事でもそうですが頭の中だけで観念的に考えていることと、実際に意識することとは全く別の事なのです。

 

自分は必ず死ぬ、それどころか今日明日にも死ぬことだってありうると気が付いて恐れおののく事、これは価値ある人生への第一歩です。その時に成って、今まで自分がしてきた事、現在自分がしている事が果たして本当に自分が心底したかった事なのかどうか真剣に考えるようになります。人の一生は短く、したい事、成すべき事はあまりに多いのです。

 

人の生き方、人生観は驚くほど多様で他人には窺(うかが)い知れないものです。それは他人がとやかく言う類(たぐい)のものでは無いでしょう。しかし一度でも「死」を意識して恐怖し悩んだ人は人生の秘密の鍵を手に入れたのです。それは実にすばらしい事です。

第十回 出来ないことをするのが人間の仕事である事

皆で集まってワイワイと話をしていると色々な意見や考え、企画などが飛び出して来ます。随分と勇ましい発言や奇抜なアイデアが次から次と出てきて話しが盛り上がるのですが、結局はただの思いつきや口先だけの事で終ってしまいがちです。しかし勿論、中にはそうした新しい考えや企画を実行に移す場合もあります。最初は新しい仕事を手掛けると云う事で意欲にあふれて失敗をものともせず頑張って突き進むのですが、次第に色々と事や話が複雑になってきて徐々にヤル気を喪失し始めます。それは必ずそうなるのです。

 

何故かと云えば、世の中の事は総て複雑だからです。ジグソーパズルや積み木の世界とは大分と違います。ジグソーパズルはいくら複雑であっても回答が一種類しかないので、時間をかけて試行錯誤を繰り返せば遂には出来上がるでしょう。また積み木の場合は個々の積み木が独立しているから、いくら大規模に作るにしても基本的には単純であると言えます。是に対して世の中の事は総てが総てに関係していて、なかなか物事の全体像を把握できないものです。「モグラたたき」のようなものです。問題を解決したと思ったら必ず別の問題が生じています。また問題の解決策も一つとは限りませんから、此の事も頭を悩ませます。

 

そういう訳で新しい仕事を始めると最初は順調に進んでもすぐに意外な予期せぬ問題が生じてきます。その問題に関連して更に困難な問題の発生が予想されます。こうなると企画自体は何(いか)に素晴らしいものに思えても、それ以上仕事を続ける気力/意欲は急速に失われ始めます。しかし実は仕事と云うのはココが出発点です。誰でも必ず出来るような仕事は機械の仕事です。矛盾した出来そうにも無い仕事に取り組んで、それをヤリ遂げるのが人間です。人間には新しい価値を生み出す能力が備わっているのです。

 

およそ世間の物事は利害関係が複雑に絡み合っているので、ただ考え議論するだけでは解決できません。話し合いというのも、対立点を鮮明にして問題点を整理するのには役立ちますが、それ以上は当事者の「人間力」にかかっています。「人間力」は機械が代行することは出来ません。また誰でもが出来る訳ではありません。何故かと云うと、「人間力」とは心を開く力だからです。是は難しい事です。私達の心は閉じています。他人を利用する事ばかり考えて一緒に生きようとはしません。皆が皆、相手を利用する事ばかり考えていて何か問題が解決の方向に進むでしょうか。

 

心を閉じて身構えてばかりいては仲々智恵も湧いてこないものです。よく言われるように、智恵は知識の集積や分析能力とは別物です。全く関係が無いとも言えるでしょう。いくら頭を絞って考えても解決できない、どう考えても矛盾している、或いは自分の能力をはるかに超えていると思われるような問題が、心の持ち方一つで全く違って見えてくる事があります。その心の持ち方とはどのようなものでしょうか。それは人より自分の方が偉いと思わない事です。人の恩、総ての生きているものいないものの恩に感謝する事です。それが智恵そのものであり「人間力」の源です。

 

第十一回 仏の教えを守る事

龍谷大学・駒沢大学・立正大学と云った宗門によって運営される大学は勿論の事、日本の多くの大学に於いては何らかの形で仏教学や仏教史などが教えられています。それらを教える先生方は僧侶の人が圧倒的に多いでしょうが、明治以降の仏教学の発展に大きく貢献した人々には非僧侶の学者・文化人も多数いました。「大正新修大蔵経」の出版や「大日本仏教全書」の監修を行った高楠順次郎(18661945)がいい例でしょう。また現今の仏教学関係の書籍・論文を見ても非僧侶の著者の方々が少なくありません。

 

ところで仏の教えを守り行う事と、仏の教えを書き記した経典を研究する事とは別の事柄です。全く何の関係も無いとさえ言うことが出来ます。料理にたとえて話をしましょう。仏の教えを守り実践してその成果を楽しむ事は、実際に食材を調理して素晴らしい料理を作りそれを心行くまで味わい堪能する事です。それに対して仏の教えである経典を研究する事は、料理の本に記された食材や調理方法についてあれこれ研究する事であり、いくら研究しても実際に料理をしなければおいしい食事を楽しむ事はできません。

 

また古くから智恵と修行は「車の両輪であり、又「鳥の両翼であると言われて来ました。二輪の馬車の一方の車輪が欠けていたり空飛ぶ鳥の翼が片方しか使えなければ、その車がいくら立派なものであれ、その鳥が燕のように敏捷あるいはオオワシのように雄大であろうとも、一体どれほど前に進むことが出来るでしょうか。これ程分かり切った話はありません。

 

「智恵」とは仏が説き明かした人間と世界に関わる真実と道理について学び理解する事です。実際には仏の教えを記した経典を研究したり、大学で仏教学の講義を聞いたり、仏教関係の書籍を読んだり、或いはお寺で法話を聞いたりと様々な形があるでしょう。「修行」とは心を鎮(しず)めて呼吸と姿勢を調え仏の教えを観想(瞑想)する事です。その事によって初めて「頭の中だけの考え」が実際に身についたものに成ります。勿論心が動揺して心を鎮めるどころでは無いという事もあるでしょうが、今はその事には言及しないで置きます。

 

この智恵と修行の両方をバランスよく実践することが本当に覚りを求めて努力する人にとって最も大事な一日として忘れてはならない事なのです。

 

ですから唯だ仏教学について学び研究するだけでは一歩も仏の覚りの世界に近づく事は出来ません。たとえ有名大学の教授で仏教学の最高権威と称賛されるような人であっても、それに釣り合う修行の成果を身につけていないのであれば、それは仏の教えを研究しているだけで守っている訳ではありません。一方で仏の教えを真剣に学ぼうとせず、ただ修業の成果だけを期待して行に励んでもそれは一種のスポーツ、エクササイズのようなものです。たとえ命がけの修行であっても仏の覚りの世界に近づける訳ではありません。

 

ところで「仏の教え」とは何でしょうか。古くから法門すなわち仏の教えには数えきれない位の種類があると言われています。しかし肝心の教えは簡単です。それは、

 

悪いと思うことはするな。善いと思うことは必ず行え。

と云う事です。そんな事は誰でも知っていると思われるでしょう。しかし此の事の積み重ねが大きな成果を生むのです。自分自身を活かして楽しみ、世界の中の価値ある存在へと高めることが出来るようになります。

第十二回 自由と放逸(ほういつ)

第四回の法話「与える事」でも少し触れましたが、仏の覚りを求めて修行する人は六つの事に心がけるべきだと言われています。「六波羅蜜」の教えです。その第四番目が「精進」(しょうじん)の修行です。肉類を使わない料理を精進料理と云いますが、これは肉類を食べる事は修行に良い影響を与えないと考えられているからです。精進料理とは修行料理の事です。その精進とは諦(あきら)めずに努力を続けることです。気を緩(ゆる)めず、手を抜かないことです。どうしてかと云うと、そうする事によって初めて本当の成果が出てくるからです。その成果を手にした時に「自由」というものを楽しむことが出来ます。自由に行動できるように成るのです。

 

これは考えてみれば当たり前のことです。自由自在に楽器を演奏する事、車やオートバイを運転する事、或いはパソコンを使いこなすこと等々、何でも長い間失敗と経験を繰り返して始めてやっと出来るのです。精進の賜物(たまもの)です。またそうした高い能力を保ち続けるためには、何時(いつ)でも初心を思い出して訓練を続ける必要があります。思い通りに自由に出来るように成ったからと云って少しでも自分を甘やかして手を抜いたりすると、たちまち腕前が落ちて以前と同じようにはすることが出来なくなってしまうのです。それは物事の道理がそのように出来上がっているのであり、気が食わないからと云って逆らってみてもどうなるものでもありません。

 

ところが人間と云うのは一方に於いて怠け者に出来ているのです。また同じ事を続けて繰り返すのは死ぬほど退屈な事です。絶えず目先(めさき)の新しいものを探し求めて気分転換をしようとします。こうした心の傾向を抑制すること無く放置すれば、それは何時しか「放逸」に流れます。人間の心は苦労を嫌って絶えず楽を求めます。眼(め)や耳を楽しませる「五感の楽しみ」に引かれるのです。それはリンゴが地球の引力に引かれて落下するようなものです。それはそれで良いではないか、と思われるかもしれません。その通りでしょう。しかし勝手気儘(かってきまま)に楽を求めたその結果、一体何を手に入れる事が出来るでしょう。自由な楽しい生活でしょうか。反対です。必ず苦しみがやって来ます。自由を失ってしまいます。自分も楽しまず、周りに人には迷惑をかけます。

「禅」の修行者のことを「雲水」と云います。雲水とは「行雲流水」の事です。大空に浮かんでは何時しか行き去る雲のように、或いは流れ流れる川の水のように、名僧の教えを尋ね求めて広く諸国を遍歴(へんれき)するのです。禅僧のバックパッカーです。何の制約も無く、呑気(のんき)で自由で楽しそうです。しかしそれは座禅の修行道場で長い間厳しい修行を積み重ね、自分で自分をよくコントロール出来るようになって初めて出来ることです。努力と精進が自由を生みだし、自分の心を豊かにしてより大きな世界で生きる事を可能にしてくれます。


第十三回 本当の自分を生きる

第十回の「出来ないことをするのが人間の仕事である事」の中で、「人間力」に関係して知識と知恵とは全く別のものであると言いました。今回は此の事についてもう少し考えてみましょう。

 

世の中に知識のある人は多いけれども、知恵のある人は少ないと云う事が出来ます。知識はレンガを積み上げるようなものです。必要があれば、又は興味があれば、努力に応じてそれなりに知識を身に着けることが出来ます。しかし知恵は違います。いくら知識を積み重ねても、それが知恵に転化する事はありません。知恵は自分を見つめ直す事、真実の反省によってしか生まれません。

 

自分をアリノママに見つめることは難しい事です。それはイヤな事です。恐ろしい事です。人は物心(ものごころ)がつき始める頃から一方で亦夢や理想を抱き始めます。それからずっとアンナ風に成りたい、コンナ風であったらいいと思い続けます。そうした目標に向かって一歩でも近づけるよう常に努力し精進(しょうじん)すればよいのですが、理想ばかり高くて現実とかけ離れたものになりがちです。そこで大抵の人は「虚像」を作り出してこのギャップを埋め解決しようとするのです。問題は自分が作り出した虚像を徐々に現実の自分と思い込むようになり、いつしか此の虚像によって自分が支配されるようになる事です。

 

どうして自分の頭が勝手に作りだした空虚なイメージが大きな力を持つようになるのかと云えば、それは至って簡単な理屈です。自分の虚像を支えるのに都合のいい経験・情報を過大に評価して忘れないようにし、反対に都合の悪い事は過小評価或いは無視して忘れてしまうからです。心は狡猾(こうかつ)に出来ていて、このような事をいとも簡単にやってのけます。こうして人はボロボロの虚像にしがみついて生きていくのです。

 

ところが一方に於いて心は自分がこのような虚しい努力を積み重ねている事をとてもよく知っている訳です。自分をアリノママに見つめている心があるのです。それではどうして此の心は大きな力を発揮して真実の自分自身を目覚めさせようとしないのでしょう。或いは出来ないのでしょうか。それも至って簡単です。あなたは他人のバカバカしい虚飾や思い込みを単刀直入に忠告してあげようと思いますか。そんな事をすればどれだけ憎まれるか考えただけでも恐ろしい気がします。心が自分の虚栄に執着している限り、此の「アリノママに見つめる心」は無視され力を出すことが出来ないのです。

 

人が長い間抱き続けてきた幻影というのは、その人にとってかけがえの無い大事なものです。そう思えるのです。たとえ心の底では空虚な思い込みに過ぎないと感じてはいても、その幻想こそが自分自身に他ならないと考えてしまいます。実際にはそんな下らない虚栄や思い込みを捨ててしまって本当の自分自身を生きるようにすれば、今まで気づかなかったはるかに自由で広大な世界を楽しむことが出来ます。それは幼い頃のまだ物心も付かなかった時分の世界に似ているかも知れません。

 

「智恵」というのは知識の幅を広げ、理解を深める事かと云うとそうでもありません。智恵は勇気です。周囲の目を気にするよりは「本当の自分を生きる」方がはるかに楽しく充実した生活ができる。此の事を信じて、もっとも些細(ささい)な、もっとも日常的な事から始めて下さい。



第十四回 大忿怒(だいふんぬ)の事

「心身一如」と云いますが全くその通りです。心と身体(からだ)は一つのモノです。「最近の世の中は腹の立つ事が多い。」とよく云います。大抵の人は何かしら腹の立つ事があるから、それに対して腹が立つのだと思っています。確かにそれは間違いではありません。しかし実は腹の立つ事が無くてもやはり腹が立つのです。

 

「腹が立つ」という日本語はなかなか云い得て妙があります。外国語にも同じような表現があるのでしょうか。それは兎に角、腹が立つというのは一種の肉体的生理現象です。世の中に腹の立つ事があろうが無かろうが、誰でも適当に腹が立つものです。注意すべきポイントは、身体の方で腹が立つと心の方でも何かそれに相応する事柄を見つけるという事です。腹が立っているのに、心の方では楽しい思い出や愉快な出来事を思って気分が好いという事は無いのです。

 

又「笑いは百薬の長」と云います。笑っていれば心もそれにふさわしい楽しい事柄を見つけて暫(しば)しは苦しみも忘れ、心身に悪影響を及ぼすストレスを吹き飛ばすことも出来るでしょう。そればかりでなく、笑いや喜びは人を積極的にする働きもあります。ですから何でもいいから笑いなさいと云う人もいるのです。

 

仏教の瞑想行(座禅やユガ行)をしていると、このような心と身体の相応関係が手に取るように分かります。すぐれた指導者の下で修行すれば心身の垢やゴミくずを捨て去って、本来の生命力の輝きに到達することが出来ます。是はいわゆる「仏の覚り」とは少し違ったレヴェルの事で、このような成果が得られるから更に「覚り」を求めて修行を続けるのです。修行をしていて何の成果も無いのに或る時突然に覚ったりする事は無いのです。それは当たり前の話でしょう。

 

さて身体的な、生理的な腹立ちは或る程度コントロールできるのですが、此のような「気まぐれ」な立腹とは別の「真の怒り」とでも云うべきものがあります。社会的正義感と此の「真の怒り」とは表裏一体の関係にあるでしょうし、仏や菩薩の大悲心と「真の怒り」も亦同じく表裏一体なのです。皆さんは右手に剣を持ってコワイ顔をして見る者を睨(にら)みつける不動明王を御覧になった事があるでしょう。お不動さんは仏様です。「真の怒り」のことを「大忿怒(ふんぬ)」と云いますが、不動明王は仏の大忿怒のお姿です。

真言密教の世界には様々恐ろしい顔をした明王や神々が満ち溢れています。仏菩薩はどこまでも優(やさ)しく寛大です。どうしてそんなに優しいのかと云えば、それは善悪を超えた大忿怒の心に住しているからです。


第十五回 内発性の生活

人は千差万別、実に色々なタイプの人がいます。しかし他人に対する働きかけという見地に立てば、積極的なタイプの人と消極的な傾向の人とに大きく分ける事が出来るでしょう。何かと自分の意見を述べたり人を誘ったりするのが好きな人と、ただ人の話を聞くだけで人に誘われて付いていく方が性(しょう)に合っていると思っている人とがいる訳です。私のように個人のホームページやブログを開設する人間は一応積極的なタイプであり、インターネット上のいろんなサイトをひたすら閲覧するだけというのは後者のタイプに属すると云えます。

 

さて何事に対しても自分の考えを主張しないと収まらないような人の場合もよく考えてみると、「自分の説」なるものはその人が好きな作家の言葉であったり学者・評論家の意見を「受け売り」しているだけであったりする事が多いのです。「それは当たり前の事だ。自分で独自の説を展開できるんだったら俺も作家に成っている」と言われるかも知れません。しかし人間である以上、人は誰でも自分独自のユニークな見解を有してそれを主張する能力があるのです。言葉を変えれば自由で豊かな内発的能力を持っていると云えます。

 

一人静かに座禅瞑想していると(別に座禅しなくてもいいのですが)、最初は「あの人の云う事はいつも大袈裟(おおげさ)だなあ」とか、「今度あの人に会ったら○○さんの近況を知らせてあげよう」とか云った対人関係に関わる事が次々と心に浮かんできます。それが一段落すると次には自分が云った事、自分がした事について色々考え始めますが、それも基本的には対人関係の関わりに於いてそうするのです。それも亦、「人間は社会の中で様々な人に囲まれて生活しているのだから、対人関係から切り離された思いや考えは存在しない」という主張が聞こえて来るようです。しかし厳密な意味合いは別にして、実際には他人との関わりを離れた自分一人の心の世界というものがあります。

 

更に一人静かに瞑想していると、遂には自分の考えや主張が「他人の受け売り」に過ぎない事、他人に対して自分の存在をアピールしようとして無理に自分を作り上げようとしている事などがありありと実感されてきます。そうして本当の自分とは何か、本当の自分になりたいという強い欲求が生じて来ます。実は是こそが「智恵」なのです。その心を忘れず抱き続ければ、必ず借り物で無い自分独自の思いや考えが湧き出てきます。それは最初あまりに素朴で単純に思えるかもしれません。しかしそれは「智恵の芽」なのです。この芽を大事に育てて日々努力すれば、今までと違った自分を発見して、内発性に彩られた豊かで自由な生活を楽しむ事ができます。


第十六回 信仰とクラウドコンピューティング

パソコンは人間の頭脳とよく似ています。心地よい睡眠から目覚めた時は頭がボンヤリしていて、すぐには複雑な頭脳作業を行うことが出来ません。パソコンもそれと同じで、電源を入れたからと言ってすぐには仕事を始めてくれません。システムや情報を整理するのにそれなりの時間がかかる訳です。また私達は余りに色々な知識や経験を憶えていると反って思考作用の障害となって適切な理解や判断が出来なくなります。それと同じようにパソコンのファイルに過度の情報が蓄積されると、システムに大きな負担がかかって動作が鈍くなり、遂にはエラーを起こしたりフリーズしてしまったりします。

 

此のパソコンの問題を解決してくれるのがクラウドコンピューティングです。自分のパソコンが抱えている過大な情報の保管とその処理をネットワーク(インターネット)経由で業者(プロバイダー)のサーバーに実行してもらいます。そうするとパソコンは身軽になってシステムは再び軽快に作動します。ただ問題なのは此のサービスは有料である事です。

 

人間にとって最大の負担となって精神生活の上に重くのしかかっているのは何でしょうか。それは自分自身です。「自己/自我」程やっかいで重苦しいものはありません。「自分自身から離れたい!」「自分を忘れたい!」などと一度も思わなかった人はいないでしょう。近年大きな社会問題となっている「引きこもり」の根底にも実は「小さな能力に対して肥大化した大きな自己」というアンバランスが存在しています。自分というのは他人から見ればどうでもいい存在に違いないのですが、自分自身はそれが気に懸ってしようがないのです。自分の中では自己は偉大であり、これ程重要なものはないのです。ですからどうしても小さな自己を捨てる事はできないように思えます。

 

しかしそれは違います。実はそれは簡単にできます。仏や神に祈りさえすればよいのです。そうすれば仏神はやっかいで肥大化した「自分自身」を預かってくれます。私達はパソコンであり、自己は情報の巨大な集積であると思いましょう。そして信仰(ネットワーク)経由でその処理を無限に大きなサーバーである仏や神に委託するのです。そうすれば自分は身軽になり、生き生きとした心の自由を取り戻す事ができます。人間はそのように出来ているのです。しかも真実の仏神は決してサービス料金を請求したりしません。


第十七回 自由と祈り

民主主義の世の中は個人が「主役」です。それは良い事です。現在でも全体主義や個人崇拝を標榜する国家が存在していますが、その社会と国民生活の事を考えて比較する時、色々と問題はあっても一応個人の自由と権利が保障された国に住んでいるのは幸せと云えるでしょう。ただ実は「主役」というのは大変な事です。人任せ、あなた任せで主役は勤まりません。よく民主主義は個人の自由を尊重するが、それは個人が義務を果たす事によって支えられていると言われますが、もし本当に個人が主役なのであれば義務を果たす以上に頑張る必要があります。それは実に大変シンドイことです。

 

個人生活に於いても同じ事が云えます。自由で誰からも命令されずに生きるのは素敵な事ですが、その反面いつも自分が「自分の主役」である事は大変疲れるのです。個人主義も度が過ぎると反って無益な苦しみばかりが増えてきます。それは辛抱・忍耐を欠いているからです。大乗仏教の基本的な教えである六波羅蜜の第三は忍波羅蜜であり、忍辱(にんにく)すなわち他人からの辱めを我慢して自分を抑(おさ)える事が非常に大切であるとされています。最近の子は「すぐキレテしまう」と言われます。子は親の鏡です。子がすぐにキレルのは親に辛抱が無いからです。

 

又何事も自分中心に考え行動して、反って自分自身が重荷になっているような人もよく見かけます。そうなると人から言い付けられた事をしている方が気楽でいいとも云えるのです。一昔前の(二昔前かも知れません)日本では自分を殺して「何事も主人の為」に尽くすタイプの専業主婦の方が珍しくありませんでした。そうした生き方の方が性(しょう)に合っている人も少なくないでしょう。

 

過度の個人主義に陥るのを防ぎ、自らの持てる能力を最大限に発揮するには神仏に対する帰依信仰が非常に有効です。ややこしく難しい事を仏菩薩の叡慮(えいりょ)に託して、自身は成すべき事柄に専念できるからです。私達が暮らしているこの世界には自他救済の誓いを成就した仏如来と同じ誓願に生きる無数の菩薩と神々が一時も休むことなく活動しています。「そんな事は無い。それは妄想である」と云う人がいます。それはそれで間違ってはいません。なぜかと云えば信仰の本質は「モノ」では無く、「相応」すなわち相互の働きかけにあるからです。今風に云えばインタラクティブであると云えます。ですから「無い」と云えば無いし、実際に信仰体験のある人にとっては極めて明瞭に存在しているのです。



第十八回 菩提心と即身成仏

自身の誤(あやまち)に気付き、生活を改めて新しい道を歩もうとする事ほど素晴らしい事はありません。それは長い人生に於ける最高の瞬間であるかも知れません。「あやまち」とは何でしょうか。それはつまるところ何事も自分中心に考えて他人の事を顧(かえり)みない心です。「新しい道」とは何でしょうか。それは自分の生存を支える総ての人・モノに対して感謝する心です。この道は遥かに続いて仏の覚りに通じています。仏の覚りを梵語(サンスクリット語)で「菩提」と云い、自分の非を恥じて覚りを求める心を菩提心と云います。

 

最初にこの菩提心を発(おこ)すことは人生の大きな転回点ですから、特に是を「発菩提心(ほつぼだいしん)」、或いは単に「発心」と呼んで宗派に関わらず重大視してきました。しかし菩提心は観念的なものではありませんから、幾ら経典や仏教の解説書などを読んでも、ただそれだけで此の心が生じる事はありません。あるとしてもそれは大変珍しい事であると思います。大抵は失意落胆の中に沈んでもがき苦しみ、その中から何とか抜け出そうとしている時に、どこからともなく自身の心に湧いて現れ出るのです。今までどうしても解決できそうになかった苦しみ、迷い、心の暗闇が菩提心の出現と共に生滅し始めます。

 

菩提心の働きは実に不可思議・霊妙であり人智の理解を超えています。ですから古人も、「初め菩提心を発した時に、その人は正覚(しょうがく)すなわち仏の覚りを成就しているのだ」と述べて、発菩提心を超える覚りの境地など存在しないと主張しました。今の此の人生に於いて仏の覚りを成就する事は「即身成仏」に他なりません。ところが一方に於いて、初発心の時から仏の覚りに達するまでには長大な時間をかけて困難な多くの段階を通過しなければならないとも説明されています。

 

こうした問題に解決を与えようとしてアレコレと理屈っぽく考えてみたところで大した利益があるとは思えません。要は、心の問題は何一つとして理論によっては解決できないのです。但し、一つ注意すべき事があります。それは発菩提心の霊妙なる働きも長続きはしないという事です。たとえその境地が仏と変わらないとしても、それはいつの間にか衰えて観念的になり、気が付いて見れば菩提心の輝きは記憶の中のボンヤリした出来事になってしまうのです。ひどい場合は、かつて菩提心を発して仏道精進に情熱を燃やしていたその同じ人が、いつしかお金の事しか考えない退屈な干からびた心の持ち主になり果ててしまうのです。

 

菩提心を発して人は仏の教えを学び、修行に精進しようと誓います。一千年以上の長い年月にわたって多くのすぐれた祖師先徳が大事にし、亦その正しさと有効性を保証してきた修行法に疑いはありません。しかし何事にせよ、本当に大事な事は言葉では伝えられないのです。若し言葉で伝えられるのなら、総て此の世の迷いは本質的には存在しないと云えるでしょう。ですから正しい教えがあるだけでは不十分で、是非とも優れた指導者が必要なのです。マラソンの高橋尚子選手も小出監督との出会いが無ければオリンピックの金メダリストになるのは難しかったでしょう。

 

ところが何の分野でもすぐれた指導者にめぐり会える事は少ないのです。その事は特に宗教界では甚だしいと云えます。真実の大悲心に溢れる大菩薩とイカサマ金儲けの詐欺師とを区別するのは容易ではありません。それでも古人の言葉に、

 

「道」は近くにある。ところが人はそれを遠く離れた所に求めようとする。

 

と記されています。自分の身の回りを整えて、自身を静かに見つめ直せば、そこには必ず大いなる道が開けている筈です。


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