真言情報ボックス第2集

〔目次〕 1. 『大日経』の『法華経』的解釈 2. 「理智冥合」と平安仏教 . 八字文殊法と天変の御祈り(其の一) 4. 八字文殊法と天変の御祈り(其の二) 5. 発菩提心・即身成仏と密教 6. 愛染・不動合体尊の事 7. 馬陰蔵(めおんぞう)三摩地の事  (続く)

 

. 『大日経』の『法華経』的解釈

『大日経』は『金剛頂経』と共に真言密教の根本経典とされています。そうは云っても今も昔も『大日経』を直接読んで理解する事は非常に困難です。多分に文芸作品的な一般の大乗仏教の経典と比較すると、密教経典には印真言を別にしても独特の言い回し(用語法)や省略等が多くあって、その内容を正確に理解する為には阿闍利の教授が不可欠です。しかし日本の場合はインドと違って阿闍利の口決相承は質量両面に於いて大変な制約がありましたから、古来『大日経』を読む事は即ちその注釈書である『大日経疏』を読む事を意味しました。

『大日経疏』二十巻は一行阿闍利(683727)が善無畏三蔵(637735)の口説(くせつ)を材料にして執筆したものです。『大日経』は善無畏三蔵の訳ですが、実際には一行禅師との共同作業で漢訳が為されたのです。そうした観点に立てば、たとえ『大日経疏』が『大日経』の中国仏教からする一解釈であるとしても、『大日経』を読む替りに『大日経疏』を読むことにして大きな問題は生じないであろうと考えられます。しかし多くの日本の真言僧にとって『大日経疏』も亦大変難解であり、その為に古来数多(あまた)の同書の注釈書が製作されて来ました。

同じく密教経典と云っても、『大日経』と『金剛頂経』では余程その趣きを異にしています。両者共に大乗仏教の教理を基にしている事は云うまでもありませんが、一見して敢えて比較すれば『大日経』は啓蒙的であり、『金剛頂経』は超越的であると云えます。『金剛頂経』は密教修法の次第としてはよく整備されていますが、それ自体を読むだけでは面白いものでは無いと云えるでしょう。それに対して『大日経』乃至同疏は誰が読んでも興味深く感じられる内容に満ち溢れていて、適切に現代化が行われれば真言密教などと云う事とは関係なくもっと普及が進むに違いありません。

『大日経』は啓蒙的であると云いましたが、それは様々言葉を尽くして説明できるという事でもあります。その事と一行師の驚嘆すべき知性とが相俟って『大日経疏』を大変知的でおもしろい読物にしていると云えます。善無畏三蔵が開元四年(716)に密教経典を携えて中国にやって来た頃には、既に天台智顗(538597)、嘉祥大師吉蔵(549623)、或いは玄奘三蔵(602664)等の活躍を経て中国仏教は教理的な爛熟期に入っていましたが、こうした背景の存在も一行が大乗経典を自在に駆使して『大日経』と善無畏三蔵の口決を解説する上で非常に幸運であったのです。

さて梵字の阿(a)字は全ての文字・言葉の始まりとして、また菩提心の標示として密教にとって特別に重要な神聖文字です。特に『大日経』を生み出した胎蔵密教にあっては、阿字は毘盧遮那仏を表す種子(しゅじ)であり教理的に非常に重要な意義が付与されています。特に同経の注釈書である『大日経疏』に於いては「悉地出現品第六」から「転字輪漫荼羅行品第八」にかけて、阿字が一切の存在の根源である事について言葉の限りを尽くして説明しています。その中でも注目すべき教説の一つとして、「悉地出現品」に於いて阿字の派生形である四種阿字を取り上げて是を「大日経一部の中の正宗の体である」、即ち『大日経』の本質であると主張している事があります。四種阿字とは基本の「ア」(短声)と「アー」(長声)、「アン/am」、「アク/ah」であり、此の四字に付いて更に「成就悉地品第七」ではアを菩提心、アーを菩提行、アンを成菩提(覚る事)、アクを大涅槃に配当する解釈を示しています。是は「四阿口決」と称して、古来真言宗では有名な教説となっているのです。

『大日経疏』は一行禅師が直接善無畏三蔵の口説を聞いて製作した書物ですから『大日経』の思想を覗う上で最良のテキストであるには違いありませんが、残念な事に文章の整理に不十分な面があって多分に読みづらいのも事実です。一行師もその改訂を意図していたらしいのですが果たせないまま入滅し、替って同時代の智儼・温古等が『大日経疏』全編を改訂して新たに『大日経義釈』十四巻を完成させました。(智儼は一行と同じく善無畏三蔵の弟子です。)『疏』も『義釈』も大同の書であるのは勿論ですが、部分的には随分と違う箇所もあります。その一例を上の四阿口決に見る事が出来ます。

即ち『義釈』では是を『法華経』方便品に説く仏知見の「開示悟入」と直接結びつけて説明しているのですが、此の解釈は『疏』には全く見られないものです。「方便品」で仏は舎利弗(しゃりほつ/シャリプトラ)に対して、仏が世間に出現するのは「一大事の因縁」があるからである。それは人々に「仏知見」を開かせ、是を示し、是を悟らせ、是に入らしめんが為であると教えていますが、『義釈』の「悉地出現品第六」に於いては仏が様々工夫を凝らして人々を教え導く事の根底には此の四種阿字の法門があると説いて今の「開示悟入」に配当しています。

即ち仏知見を開くとは、人々が本来自らに備わっている偏りの無い透徹した物の見方に気づいて其れが出来るようにさせる事であり、是は「ア」字の浄菩提心の法門である。仏知見を示すとは仏の大悲の法門を示して了解させる事であり、是に依って修行者は自利利他の万行に励む事が出来るようになるが、此の事は「アー」字の菩提行の法門である。仏知見を悟らせるとは大悲万行によって遂に大菩提に至る事であり、是は勿論「アン」字の法門である。仏知見に入らしめるとは、成菩提(成仏)によって人々に生滅の因縁を超えた常住の世界を説き明かす事が出来るようになり、是は「アク」字の大涅槃の法門である。

以上が『大日経義釈』の要旨ですが、『菩提心論』に於いて早くも此の説が引用されているのは注目に値します。同論では「毘盧遮那経疏の解釈に準じれば」と前置きしてから、四種阿字を「法華経中の開示悟入の四字に配当して理解する」のであると述べて『義釈』の趣旨を再説しています。同論は是を始めて本邦に将来した弘法大師によって龍猛(りゅうみょう)菩薩の作、不空三蔵の訳と定められましたが、今見たように『義釈』が引用されている事などから古来作者に付いては諸説があります。

弘法大師も四種阿字を『法華経』の「開示悟入」に配当する説が気に入られたようであり、大正大蔵経に収載する同作の各種『法華経開題』に於いて此の説が取り上げられています。又同論は慈覚・智証両大師も将来されていますが、インターネット『大正新修大蔵経テキストデータベース』の検索結果による限り今の『義釈』の説を著作で紹介されてはいないようです。『大日経疏』のみを請来して『義釈』を伝えなかった弘法の著作に『義釈』の説が述べられ、『義釈』を請来した慈覚・智証が今の説に言及していないのは皮肉な事と云うべきでしょう。台密では五大院安然(841915頃)が『教時義』巻第三と『菩提心義抄』巻第四に於いて阿字の開示悟入配当説を取り上げていますが、何れも直接『義釈』から引用しているのでは無く『菩提心論』に依ったものです。

. 「理智冥合」と平安仏教

 

いつの世も言葉は時代を写す鏡です。特定の言葉に対する好みの変化はその背後にある思想、時代の風潮を反映していると云う事も出来るでしょう。それは基本的に極めて保守的と考えられる仏教学の歴史に於いても同じです。本稿では平安後期以降の顕密典籍に頻出する「理智冥合」という一般の仏教学ではほとんど相手にされない用語を取り上げて少しその事を考えてみましょう。

 

理智冥合と似た言葉に「理智不二」という語があります。どちらも唐・宋代の中国仏教に於いて少ないながらも使用例が存在していますから、一応日本で新たに発明された言葉では無いと云えます。しかし両語は日本の中世仏教に於いて顕密を問わず愛好され、様々な使用例を通してその意味内容を拡げました。また両語を比較するとそのニュアンスに大きな違いがあり、冥合は「確認しづらいが深い所で合わさっている」、不二は「煎じ詰めれば二つでは無く一つである」と云うような意味であり、冥合は主意的・感覚的であり不二は客観的・論理的と云えるでしょう。従って不二の方が論理性を愛好する仏教学に適していて、インターネット「大正大蔵経データベース」で検索してみても理智冥合より理智不二の方がはるかに使用例は多いのです。

 

○ 「理智」という言葉は仏教のありふれた基本用語であり、「所証の理、能証の智」と言い慣わされています。それでも特に日本の中世真言密教に於いて甚だ頻繁に使用されて来た事は注目に値します。それは平安時代を通じていつしか胎蔵曼荼羅は理界、金剛界曼荼羅は智界という固定概念が成立したからです。インドに於いては胎蔵・金剛両密教はそれぞれ独自の過程を経て成立したものであり、それを理と智に配当するのは教理的に問題があるのは云うまでもありません。しかし唐代の中国長安に於いてそれらが同時に、或いは相前後して将来された為に、中国人の阿闍利に対して二つの密教を統一して説明する必要が生じました。こうした要請に応えて不空三蔵(705774)によって金剛・胎蔵両部密教が創始され、またその教理を図像学的に表した一対の両部曼荼羅が製作されたのです。

 

日本の場合は弘法大師によって当初から両部密教とその曼荼羅が請来されましたから、胎蔵密教と金剛界密教とが本来別個の宗教であるという認識は極めて希薄であり、両部を理智に配当する事にさして抵抗感は無かったでしょう。また両部の本質は「理智不二」であると考えられ、台密に於いてそれは蘓悉地密教を意味した事もよく知られている通りです。一方東密に於いては平安時代末から『瑜祇経』に対する関心が急速に高まり、此の経を「両部不二の秘経」と称して様々な口決が製作相伝され、また此の瑜祇の法門では「理智冥合」なる言葉が好まれたのです。

 

○ それでは仏教典籍の中で此の語がどのような意味合いで使用されて来たのかごく簡単に検討してみます。先ず大正新脩大蔵経に収める仏教典籍の中で最初の使用例は、中国法相宗の開祖基法師(窺基/慈恩大師 63282)の『大乗法苑義林章』巻第七の中に見ることが出来ます。即ち仏身のカテゴリー(種類と数)に関して広説する一段に於いて、如如(にょにょ)は自性身(理仏)であり如如智は報身(智仏)と云う事ができる。それは理と事とは別であるからである。しかし結局は「理智冥合」の故に二身を合して法身と称すべきである、と述べています。

 

中国では次に宋代の子璿(しせん/9651038)作『金剛経纂要刊定記』巻第三に使用例があり、是も仏身論と関係しています。即ち此の場合は所証と能証の組み合わせで報身と法身を考え、その事を「理智冥合」によって説明しています。具体的には、慈悲万行を証する智は(理智冥合して)報身を成じ、真如の実理を証する智は(理智冥合して)法身を成ずと述べています。また「理智冥合」なる言葉の説明に、宝珠とそれが発する光との関係を例として挙げています。

 

○ 日本では先ず天長勅撰六本宗書の中、三論宗の立場を論述した西大寺の玄叡(?―840)作『大乗三論大義鈔』巻第三に最初の使用例が見られます。佛の自性身は真如の理であるから常住であるが其れに依拠する受用(じゅゆう)身は無常であると云う主張に対して、報身(受用身)である智法身は「正智が真如に冥合している」のであり「理智冥合」の故に常住であると説明しています。言及はしていませんが上述の基の説が念頭にあったのだと考えられます。

 

次に慈覚大師円仁の御作とされていた『真言所立三身問答』の例があります。大日経の教主毘盧遮那如来を「理智不二の智法身如来」と定義してから、以下「理智不二法身は理智冥合・恒然常住であるから説法しない」と云う問難に対して法身説法の義を説いています。是は平安後期以降に盛んと成る法身説法の議論を前提に撰述されたもので慈覚大師の作ではあり得ませんし、「理智冥合」なる言葉の理解も大変浅薄です。従って平安前期の使用例は玄叡の一例だけ云う事ができます。

 

平安中期に於いては真言子島流の祖真興(9351004)が『梵嚩日羅駄覩(ぼんばざらだと)私記』の中で此の語を使っています(二箇所)。寂滅平等は所証の理、究竟真実智は能証の智であり、理智冥合の故に(三摩地智に)住すと云い、或いは月輪(がちりん/真如/理)の中に八葉蓮華(智慧)を観じる事によって理智冥合を究めると論じています。

 

次に中古台密の巨星池上阿闍利皇慶(9771049)の口決を記した長宴(101681)の『四十帖決』に於いて四箇所で使用されていますが(大正蔵本巻第1,,,13)、これらの記事を読み合わせてみると皇慶の「理智冥合」なる言葉に対する関心の深まりが窺われて興味深いものがあります。皇慶は最初上述の基の説を読んで此の言葉を知ったらしく、早くは如如と如如智を理・智法身に配当してから智法身は「境智冥合して未だ法楽を受けざる」位、即ち正覚しながら自受用身(じじゅゆうしん)を成就する前の仏身であると説いていました。それが自受用身は「理智冥合して函と蓋の如き」状態にある時と云い、最後には胎蔵・金剛両界を理智に配当してから金剛界大日の智拳印は「他受用身、理智冥合、函蓋相応を表す」と主張するように成ります。此の事は智法身/他受用身に関する性格を積極的に考える上での理論的根拠を提出したものとして高く評価されるべきでしょう。

 

以上唐前期の慈恩大師から日本の平安中期に至るまでの使用例を見てきたのですが、最初の基法師の用語法を受けて、仏身論に於ける法身と報身/受用身の微妙な関係を説き明かす為に用いられているのが分かります。

○ 平安時代後期になると使用例が増し、様々な用語法が現れて、理智冥合なる言葉は徐々に一般仏教用語として用いられるように成ります。先ず仁和寺の学僧済暹(10251115)の『大楽経顕義抄』巻中の例から見て行きましょう。本書は『理趣経』の注釈書ですが同経第七段(文殊師利)の「諸法は空なり。無自性と相応するが故に」という文を釈して、上句は「所証の理性」、下句は「能証の智体」を示し、その「理智冥合を空解脱門と名づく」と言っています。

 

次に清水寺定深(12世紀前半)の作とされる『十八契印義釈生起』では、先ず左右の二手を定恵、次に定恵を理智に配当し、二手の指を内側に交えるのは「冥の義を表し」、また指を交えるのは「合の義を表す」から、是は「法身如来の理智冥合の標幟(ひょうじ)である」と述べています。やや唐突な説明に感じられますが、是は次に此の印を基にして三部の聖衆が出現する事を説くからです。(請車輅の所)

 

また天台座主にもなった恵心流の学僧忠尋(10651138)の作と云う『漢光類聚』巻第三には、「理智和合・境智円融」等という言葉と共に此の語が用いられています。即ち止観不二の法門に於いて「不二の道理」を解釈する中で、「止」の体(たい)は法身の理、「観」の体は法身自受用智であって、理智冥合の義を以って止観不二の道理が明らかになると言っています。本書は中古天台の口決法門の伝書としてよく知られていますが、著者に付いては偽撰説もあって定説が無いようです。

 

最後に覚鑁上人(10951143)の『十八道沙汰』と『金剛頂経蓮花部心念誦次第沙汰』に一箇所ずつ使用されていますが、共に蓮花合掌を釈して左は胎蔵/理、右は金剛界/智であり、両手を合わせて理智冥合の義を表すと述べています

 

以上平安後期になると概して形式論理的な使用法が顕著であり、それだけ「理智冥合」なる言葉が一般化している事を内容の上からも裏付けていると云えるでしょう。



. 八字文殊法と天変の御祈り(其の一)

 

真言密教に於いては台密・東密を問わず口伝の相承という事を非常に大切にします。しかし此の事は一面に過ぎません。何事にせよ工夫・創意とそれを通じた新しい価値の創造が無ければ生命力を失って衰退してしまうのは物事の道理であり、それは真言事相の世界に於いても勿論変わる事はないのです。『覚禅鈔』や『阿娑縛抄』に収録されている夥(おびただ)しい数の様々な口決類を見る時、中古の真言事相の名匠達は口伝の相承よりはむしろ斬新な口決の創出に心血を注いでおられたのでは無いかとさえ思われるのです。

 

世の中の事は何事にせよ、必ず相反する両面の中間に真実の価値が潜んでいます。その価値を実現するのは熱意と努力です。真言密教の場合も口伝の相承だけでは何の意味もありません。その事を自分なりに捉え返す中で新たに何らかの価値を創出する活動に導いて初めて意味あるものと成ります。ですから真言修法の内容が時と共に、或いは人によって変わるのは当たり前の事です。この小論では八字文殊法が平安後期にその性格を変えて「天変の祈り」に盛んに用いられるようになった事情について検討を加えてみましょう。猶「八字文殊」と云うのは東密の呼称であり、台密では「文殊八字」と云います。

 

○名称と本説の事

 

「八字文殊」という名称はその真言「オン・アクビラウンキャシャラク(om.ah.vi.ra.hum.kha.ca.rah)」が梵字では8字で作られている事に依ります。此の八字真言の本説は菩提流志訳『文殊法宝蔵経』に説く「大威徳陀羅尼」であり、その陀羅尼の肝要部である末尾の8字を独立させたのが今の真言です。又この八字呪の威力を信仰する人達によって真言が尊格にまで高められて八字文殊菩薩と成り、それを本尊とする修法次第も整備されました。それが『八字文殊軌』と通称される後唐期の菩提仙訳『大聖妙吉祥菩薩秘密八字陀羅尼修行曼荼羅次第儀軌法』であり、八字文殊法の主要部分は此の儀軌の所説に基づいて作られています(「妙吉祥」は梵語:文殊師利manjusriの漢訳語です)。

 

『文殊法宝蔵経』、『八字文殊軌』は共に所謂(いわゆる)雑密経典であり、様々の呪法とその効験が記されています。効験の種類は自身や親族、村落等の息災安穏、或いは長命・富貴等から、戦場での無事、敵軍退散等に至るまで、要するに人が切に願望する事は何でも取り上げられていますが、『八字文殊軌』には「好夢」の事が二箇所に記されていて当時の人々が夢と現実との因果関係を真剣に考えていた事を示しています。

 

○勤修(ごんしゅ)の先例の事

 

日本で八字文殊法が修された最初の例は『阿娑縛抄』に引用する『扶桑略記』逸文によれば嘉祥三年(850)二月の事で、それは仁明天皇の御薬加持の為に慈覚大師円仁が内裏の仁寿(じじゅう)殿に於いて勤修したのです。『八字文殊軌』の訳出は唐の長慶四年(824)ですから弘法大師の請来典籍の中には含まれず、恵運(798869)と円仁により相次いで本邦に将来されたのでした。

 

しかし『阿娑縛抄』によれば又異説があり、池上阿闍利皇慶(こうけい、9771049)が伊予国(愛媛県)に於いて降雨の為に此の法を修したのが最初であると述べています。恐らく同じ八字文殊法と云っても、慈覚大師の修法と池上阿闍利の修法との間には相承の上での連続性は無かったのでしょう。

 

平安中期の摂関政治の時代には最も確実な修法記録があります。それは藤原道長の『御堂関白記』に出る長和二年(1013)七月四日の仏眼寺に於ける八字文殊法の記事であり、是は道長の娘である三条天皇中宮(妍子)の御産御祈りの為に行われたものです。修法の阿闍利は未詳ですが、仏眼寺は京都市左京区浄土寺町の近辺にあった天台宗の寺院とされていますから、当然誰か台密の僧が修したのでしょう。

 

以上の三例は薬加持(病気平癒)・祈雨・御産平安とそれぞれ真言修法の効験が最も期待された事柄でもありますが、とりわけ御産御祈りに関して八字文殊法は必須の修法と考えられ、その伝統は平安時代以降も長く続きました。尤も平安末から鎌倉時代にかけて公家(こうけ/天皇)御修法(みしほ)の規模が肥大化し、御産御祈りの場合も七仏薬師・孔雀経・如法愛染等の台密・東密を代表する大法・秘法が重視されて八字文殊法の影はすっかり薄く成ってしまいました。

 

○天変の御祈りの事

 

宇宙や天文学に関する近代的な知識を持たなかった古代中世の人々にとって、大空に出現する尋常ならざる「天変」は大きな不安と脅威を呼び起こしました。当時の天変とは具体的にどのような現象を指すかと云えば、現在の私達にも納得できる日食・月蝕・彗星・流星群のような天体現象ばかりでなく、中古の人々は星の位置関係を大変気に懸け心配したのです。恒星の天空上の位置は不動ですから相互関係に変化はありませんが、太陽・月・惑星(これらを七曜或いは九曜と云います)の位置は月日が移り変わると共に変化します。すなわち七曜(九曜)と恒星の位置関係は一年を通じて変化し続けます。それで月や熒惑星(けいわくせい/火星)・計都星(彗星)などの凶星が個々人の運命を司る曜・宿(惑星と星座)等に接近する事を「侵犯」と捉えて恐れ、それが齎(もたら)す災厄を避けるために侵犯の程度に応じて「慎み」を成すべきであると考えられていました。

 

又天変が出現する事は国家の政治に何か欠点・問題がある事を示していると考えられ、日本の施政者である天皇・摂関・大臣等は天変とそれが齎(もたら)す災厄が早く消滅するよう御祈りを行いました。その御祈りとは神社に対する奉幣(ほうへい)、大般若経や護国経典である仁王経の転読などが代表的なものでしたが、平安時代中期になると様々な密教修法や陰陽道(おんみょうどう)の祭も行われるようになります。

 

ところで現在からすれば古代の天文学などは至って幼稚なものと一般に思われていますが、太陽・月・惑星の運行に関しては精密な観察が積み上げられ日蝕・月蝕が起こる日時は大体予想が出来ました。又日蝕・月蝕はいくら熱心に祈った所で止める事は出来ません。それでは日蝕・月蝕の御祈りに何を期待したのかと云うと、蝕が起こる時間帯に天皇の御所がある京都の空を雲が覆い、日蝕・月蝕が「正現」しなければ問題なしとされていました。

 

 

 

. 八字文殊法と天変の御祈り(其の二)

 

○熾盛光法の事

 

平安時代中期に於いて天変の御祈りを代表する密教修法は熾盛光(しじょうこう)法でした。同法は『熾盛光仏頂軌』と略称される『大聖妙吉祥菩薩説除災教令(きょうりょう)法輪』をその本説とし、天災地変・兵乱・疫病流行等の国難を消除する為に除災曼荼羅を建立すべき事を説いています。我が国には慈覚大師によって国家鎮護の秘法として将来され、以来台密に於いては最重要の秘法として相承され来りました。

 

関白藤原忠平(880949)の日記『貞信公記』によれば、承平八年(938)三月十一日に天変による朱雀天皇の御修法として天台座主尊意によって熾盛光法が行われています。記録の上では是が天変の御祈りとして熾盛光法が修された初例になるかと思います。又天慶八年(945)には「天変と物の怪」による同天皇の御修法として天台座主義海により同法が修されました。こうして天変の御祈りの為に熾盛光法を行う事が恒例となって行きます。それでは八字文殊法の場合はどうでしょうか。

 

○天変の御祈りとしての八字文殊法

 

右大臣藤原実資(9571046)の日記『小右記』によれば、治安三年(1023)十二月十四日に実資は「天変を攘(はら)う為に」普門寺に於いて文円阿闍利に八字文殊法を始行させました。文円は三井寺長吏文慶法印(9661046)の弟子です。是は実資個人の私的な修法ですが当時既に八字文殊法と天変を結び付ける考え方が台密寺門系に成立していた事を示しています。それでは公家(こうけ/天皇)による天変の御祈りの為に同法を修した早い例はいつ頃かと云えば、『中右記』永長元年(1096)七月一日の条に堀河天皇の日蝕の御祈りとして七佛薬師・仁王経と共に八字文殊法を修した事が記されています。

 

八字文殊の本軌である『八字文殊軌』は初めの所で述べたように元来一般的な息災を説く雑密軌であったらしいのですが、中途の息災曼荼羅を説く部分で「七種災難」に言及し、若し「日・月蝕、五星(月~金曜)の運行の乱れ、反乱の続発、天候不順と風雨の災害、逆臣による悪政、悪獣の増加、五穀の不作」その他の災厄を消滅させる為には曼荼羅の中心にマン(梵字mam)字を書くべきであると言っています。此の文章に依拠すれば、天変とそれが齎(もたら)すかもしれない災難を攘う為に八字文殊の法を行う事は理に適(かな)っていると云えます。

 

しかし此の曼荼羅では外側(外院/げいん)に「十六大天」すなわち八方天とその天后を説くものの、七曜・十二宮・二十八宿と云った星宿に関わる諸天(神々)が存在しません。又本軌の後半部に説く供養法でも諸眷族としては文殊八大童子の印真言を出だすのみです。是では日月蝕等の天変による災厄を消散させる為に八字文殊法を修する積極的な理由に乏しいと云えるでしょう。

 

○熾盛光法と八字文殊法

 

『八字文殊軌』は印度で成立した原テキストをそのまま漢訳したものでは無く、恐らく訳者菩提仙と筆受者義雲が共同で編述したのであろうと考えられます。その事をよく示すのが、曼荼羅を説き終わってから念誦次第を説く前に熾盛光法に直接言及する部分です。そこには、

 

「若し五星の運行異常、日・月蝕の頻発、彗星の出現を契機として、四方の国境に外国が侵攻して百姓を強奪し、大臣が叛逆し、(中略)そのような場合には大壇(曼荼羅)を作れ。壇の第二院(八文殊童子が配される)の外(即ち第三院)に十二大天を布列すること熾盛光法の如くにせよ(この場合「十二大天」は九曜と那羅延天等七天で十六天と成りますが、火・水等の五曜を一天に数えて十二天とします)。次の第四院に二十八宿を配し、第五院には十二宮神と四明王を配置せよ。」

 

と述べられていて、熾盛光法の権威を借りて八字文殊が日月星宿の支配者でありその法が天変とそれが誘発する国難に有効な修法であると主張しています。此の事は又『八字文殊軌』が後唐期の不穏な情勢に応じて新しく訳出/製作された密教修法である事を窺わせます。

 

実は熾盛光法の本軌である『熾盛光仏頂軌』と『八字文殊軌』はお互い近縁の経典です。『熾盛光軌』には題目に続けて「文殊大集会(しゅえ)経息災除難品より出だす。亦熾盛光仏頂と云う。」と注記があり、一方『八字文殊軌』は題目の次に「文殊菩薩普集会経除災救難息障品より出だす。」と注していますから、両軌は共に『文殊菩薩大集会経息災品』なる経典の抄出(部分訳)である事になります。

 

○熾盛光法に准ずる八字文殊曼荼羅の事

 

日本に於いては摂関政治が隆盛して天皇の権威が相対的に低下し始めた頃、貴族社会の間に星宿と個人の運命との関係に対する関心が高まり、やがて天変が齎すかもしれない個人的災難を未然に生滅させる為に様々の仏事を行う事が流行するように成ります。その場合、熾盛光法は公家(こうけ)の御修法として臣下の貴族が行うことは厳しく制限されていましたから、同法と繋がりがある八字文殊法が新たに注目されるに至ったのでしょう。

 

台密法曼流の諸尊口決集として著名な戒光房静然(12世紀頃)作の『行林抄』や小野法流を集大成した勧修寺(かじゅじ)興然阿闍利(11211203)の『曼荼羅集』には星宿を配置した八字文殊の曼荼羅を載せています(但し『大正大蔵経図像4』に収載する『曼荼羅集』は儀軌の引用のみ)。しかし現存する彩色の八字文殊曼荼羅は大抵『八字文殊軌』の本来の説に基づき制作されていて、前述したように是には九曜・十二宮・二十八宿は何れも描かれていません。従って天変の祈りに対する修法本尊とするには根拠に乏しいと云えます。従来熾盛光法に准ずる八字文殊曼荼羅の作例は諸尊の口伝集や図像類に於いてしか知られていなかったのです。

 

少し前になりますが『佛教藝術』第223号(1995年)の林温「新出の八字文殊曼荼羅図について」に於いて紹介解説されている個人蔵の彩色八字文殊曼荼羅はその点で非常に貴重な作例であると云うことが出来ます。此の図像は第二院(八文殊童子)の外側に十六個の白円相を配していますが、これらが前項に述べた『八字文殊軌』に於いて熾盛光法に言及する部分に説く「十二大天(十六天)」を示している事は確実であると云えます(詳しくは林論文p.68以下を参照して下さい)。従って亦此の曼荼羅は天変の祈りの本尊として制作使用されていたに違いないと考えられるのです。

 


. 発菩提心・即身成仏と密教

 

「即身成仏」という言葉がいつ頃誰によって最初に用いられたかは兎に角、煩悩具足の人間が現世に於いて仏と同じ境地に達する事が出来るという考え方は、大乗仏教興隆の当初から存在していました。それは大乗仏教運動の根本的理念の一つである「菩提心」の概念のなかに胚胎していました。その一方で大乗仏教は仏の概念を現実の人間性から切り離していよいよ高め、遂にはあらゆる善の概念を包摂した超越的な存在に仕上げました。こうした仏に関する相反した主張を説明する為に高度な教理体系を構築したのも、他に余り例を見ない大乗仏教の顕著な特徴と云えます。

 

さて仏教一般の教えでは、人が初めて菩提心に目覚めてから仏道修行を重ねて遂に仏の覚りを成就するまでには大変長い時間を要するとされていました。その長い時間を三大阿僧祇刧(あそうぎこう)、略して三劫と云いますが、顕教と密教では此の事に関する教理的解釈を異にする事があります。また日本の密教は特に中世を通じて本覚思想の影響を強く受け、本覚門の立場から本来滅すべき煩悩は無く証すべき覚りも無いと主張して「梵聖不二」「即身成仏」などをテーマに論義する事が盛行しました。

 

「阿僧祇」は億・兆を遥かに超える大きな数の単位であり、「三大阿僧祇刧」はほとんど無限大に近い長大な時間、或いはその長大な時間をかけて修行者が克服する三段階の「妄執」を言います。実際的な見地に立てば、修行期間としてこの様な長大な時間を設定する事は仏の無上菩提を永遠の彼方に退け、仏道精進の意欲と目的を損なう危険性があって有害とさえ云えます。又「梵聖不二」というような本覚門の立場を修行に持ち込めば、それは仏道修行の意味そのもの危うくする懸念があります。

 

しかし自身の誤りに気付いて恥じ、仏の無上菩提を信じて第一歩を踏み出す人はそのまま仏の境地に住しているのです。此の事は広く古人の認める所です。ブッダバダラ(359429)が漢訳した『華厳経』、いわゆる「六十巻本華厳経」の巻第八に於いては、

 

「過去・未来・現在の仏と一切の縁覚及び声聞(しょうもん)がよく調べて解説しても、菩提心を発(おこ)して仏道修行に精進する菩薩の素晴らしさを説明し尽くす事はできない。菩薩が初めて菩提心を発した時には、広大無量の限りない大慈と大悲を以って一切を覆うのである。」

 

と述べて発菩提心を讃嘆し、遂には有名な、

 

「初発心時に便(すなわ)ち正覚を成ず。」

 

という言葉を記しています。「正覚を成」じた人は仏と呼ばれますから、言葉を変えれば初め菩提心を発した時にその人は「即身成仏」しているのです。

 

亦『大般(だいはつ)涅槃経』(北本の巻第38、南本の巻第34)に於いても「発心と畢竟(ひっきょう)の二は別ならず」、すなわち発菩提心と究極の覚りの心とは一つであり差異は無いと説かれています。

 

そうは云っても、発心した人がそのまま今から2500年前にブッダガヤの菩提樹の下で成道した釈迦牟尼仏の再来と考えられている訳ではありません。同じ『華厳経』が菩薩の修行段階を区別して、十信・十住・十行・十回向・十地・妙覚の五十一位を設定している事は余りに有名です。その中でも十地の後半の段階となると是はもう超越的・観念的な存在であり、一般常識のレベルでは仏と称して何の問題もないと云えるのです。因みに観世音菩薩などの大菩薩は(下位から数えて)第五十位に相当する第十地の菩薩であり、ほとんど仏に等しい覚りを得ていますから「等覚の菩薩」と云い、非常にわずかではあるが困難な障壁によって第五十一位の妙覚(仏)と区別されているのです。

 

ですから「仏」という概念にやはり区別・段階を設けて、初発心時の即身成仏が仏の中でもどのような段階に相当するのか説明する必要があります。又五十一位の中の第何位の菩薩に相当するのかに付いては、第十一位の初住とする説と第四十一位の初地(歓喜地)とする説などがあります。しかし此の問題は仏教学者の先生方にお任せして置きましょう。それと一般的に云って、精神性に細かい上下の段階を設定する事はあくまで分析的な方便の説であり、心の真実の有り様(是を「実相」と云います)からかけ離れている事を忘れてはなりません。

 

ここでは善無畏三蔵の口説を一行阿闍利が記した『大日経疏』の中で、発菩提心の功徳に付いて言及している簡潔で明白な一節を紹介します。それは同疏巻第九「入曼荼羅具縁品第二之余」に於いて、大悲胎蔵曼荼羅に入壇する意義と利益を説く部分で述べられています。以下に此の一節を私に現代語訳して掲載します。

 

『大日経疏』巻第九「入曼荼羅具縁品第二之余」

 

(入曼荼羅の功徳)

 

声聞(しょうもん)の法門に於いては、戒律を授かって修行を始めたばかりの煩悩具足の段階から始めて、戒・定・恵の三学を学修する段階、遂に学ぶべき事とて無くなった無学の段階など、それぞれ異なる幾つかの修行階梯が設定されている。そうは云っても具足戒を受けてそれを守ろうと心に誓う事によって身に備わる止悪行善の力に関しては各段階に優劣の差は存在しない。

 

今此の菩薩の法門に於ける戒律(即ち三摩耶戒の中の「菩提心を忘れ捨て去ってはいけない」という戒)も亦同じである。即ち最初に菩提心を発して仏道の修行を始めてから、乃至覚りを開くまで四十二地のそれぞれに異なる段階が設定されてはいる。そうは云っても発心の一時に真理の世界に対する洞察力が備わり、悪から離れて善に向かう心の性向が発現するのであり、その事は如来と比較して上下・大小等の違いは無く同じである。

 

更に述べれば、初め発心の時に身に備わる一切の功徳に関しては如来と何の違いも無いけれど、それから後は無量阿僧祇刧という大変長い時間を通して修行する必要があるとされている。ところが(密教に説く曼荼羅の法門に入れば)一念の中に於いて長大なる時間を進み、真理の世界に対する洞察力はいよいよ深く広くなる。此の事は何とも不思議で説明の仕様が無い。そうした理由で此の事を「秘密蔵(密教法門)の中の無作(むさ)の功徳」と名付けている。

 

そうであるから『大日経』の中に、

金剛手菩薩は質問して、これらの善男子と善女人は此の大悲蔵曼荼羅に入る事によってどれくらいの利益と幸福を手に入れることが出来るのでしょう、と云った。

 

仏はそれに答えて、最初に発心してから修行を重ねて遂に覚りを開き如来と成るまでに獲得する利益・幸福の総体と、此の曼荼羅に入った善男子・善女人が獲得する利益・幸福とは全く同じで異なる事が無い、と答えられたのである。」

 

と記されている。曼荼羅に入るという事がいかに大きな幸運であるか、その事は人の思考能力を遥かに超えている。ただ諸仏のみが此の事を正しく理解できるのである。

 

(『大日経疏』の現代語訳は以上です)

 

〈コメント〉

 

前後の文章を読んでみると『大日経疏』がこの部分で云わんとしているのは、当時の伝統仏教である小乗仏教の具足戒と同じ功能(くのう)が大乗菩薩の発菩提心に備わっていて、更に入曼荼羅によって長大な修行期間を一瞬に凝縮することが出来ると云う事です。是に付いて少し考えてみましょう。

 

仏の教えを信じて修行に志す人は、先ず髪の毛を剃って袈裟を身に着け、戒律を学んで遂に戒壇に上って具足戒を受ける。こうして始めて比丘(びく)と称される一人前の僧と成り、本格的に戒・定・恵の三学の修行と学習に精進することが出来るようになる。大乗仏教の多彩な教学が花開いた唐代中期と雖も、僧侶と仏道修行に関する基本的な考え方の根本に戒律があった事は云うまでもありません。又具足戒を受けた比丘には「無作(むさ)の律義」と称する止悪修善の性向がおのずと備わると考えられているのです。

 

しかし戒律を厳格に守ったところでそれが外面的な威儀振る舞いに留まっている限り、本来の目的である自利・利他のすぐれた精神性の発現は期待できません。それに対して戒律の見地からすれば色々問題はあるにしても、初発心を忘れず大乗菩薩の行に励む人は大きな感化力を以って多くの人を導く事ができるのであり、それは菩提心を発した時に止悪修善の性向である「無作の善根」が身に備わるからであると考えられました。(上の『大日経疏』の訳部に於いて、この「無作の律義」と菩薩の律義である「無作の善根」が対比して語られていますが、分りづらい言葉なので意訳して示しました。)

 

しかし初発心はあくまで出発点に過ぎない事も亦事実です。大乗仏教一般の考えでは、三大阿僧祇刧という長大な時間の中で生死(しょうじ)を繰り返して善行を積み上げなければ覚りを開いて仏と成る事は出来ないのです。それに菩提心自体は知識や技術と違って教え学んで身に付くものでもありません。是に対して密教徒は瑜伽(ヨガの瞑想)の体験にヒントを得て、仏の世界を化作(けさ)してその中に入り、疑似的に仏や菩薩と面会して大きな感動を得る仕掛けを案出しました。それが曼荼羅の儀礼であり、誰でも大日如来を主尊とする大悲胎蔵曼荼羅に入って潅頂を授けられれば、そのまま三大阿僧祇刧を超越して釈迦牟尼仏と同じように成道前の最後の生涯に移行する。是は言葉では全く説明ができない「秘密蔵の中の無作の功徳」であると説明しているのです。

 

そのような主張は只の妄想かおとぎ話の類(たぐい)であると考える人もいるでしょうし、また逆に入曼荼羅の加持力によってそのまま仏の覚りを得る事ができると主張する人もいます。しかしそれはどちらも間違っています。曼荼羅法門の意義は、旧来の大乗仏教が教理的に肥大化して教義をめぐる論争に明け暮れしている事を批判して、修行によって覚りを得るという本来の立場をあらためて鮮明にした事です。密教法門は大乗仏教の教理に基づいて作られてはいますが、その精神は反って大小乗仏教分化以前の釈迦牟尼仏の時代に回帰する事を目指していたのです。

 


. 愛染・不動合体尊の事

 

鎌倉時代後期には不動・愛染二明王を以って、それぞれ胎蔵・金剛両部の教令身(きょうりょうじん/忿怒明王)とする新しい考えが流行し、時代が下がるにつれて更にその事に関する様々の口決や図像が製作されたようです。珍奇な図像の一例として二明王を合体させて一尊とした白描像が『仏教図像聚成 上巻 六角堂能満院仏画粉本』に見られます(2178「両頭愛染明王二童子像」。但し此の題は誤りで正しくは「愛染不動明王」です)。

 

不動明王は密教の根本仏である大日如来の教令輪身として胎蔵曼荼羅の持明院(五大院)に描かれていますが、本邦に於いては恐ろしい魔障を調伏する守護尊として古く入唐八家(にっとうはっけ)の時代から深く信仰されていました。その国家的造立は、弘法大師がその製作を直接指揮した東寺講堂の五大明王中尊不動によって代表され、又修行者に仕えて護持する私的な側面は、智證大師円珍が座禅瞑想の中で感得した尊像とされる園城寺(おんじょうじ/三井寺)の「黄不動」画像によってよく表されています。

 

一方、愛染明王は真言密教の根本聖典である金胎両部大経、即ち『大日経』『金剛頂経』に於いて言及が無く、『瑜祇経』の「染愛王心品」と「愛染王品」の中にのみその所説を見る事が出来ます。尤も鎌倉初期には本邦の阿闍利が撰述したと考えられる愛染明王の経典が複数存在していました。しかし鎌倉時代全般を通して見ても、これらの本邦撰述経典類が愛染法の相承口決に影響を及ぼした事はほとんど無いと云えます。『瑜祇経』は最初弘法大師によって請来され、早くに安然(841頃―915頃)による三巻の注釈書も製作されました。しかし不動明王とは違ってその後『瑜祇経』や愛染明王に対する関心は薄れてしまったのですが、白河院政期になって皇室・摂関家の間で愛染明王に対する関心が急に高まりその信仰が定着しました。鎌倉後期になると特に東密小野流に於いては、愛染明王の本説である『瑜祇経』全般の評価が大変高まって、遂には『瑜祇経』を以って両部不二の秘経とする考えが盛行しました。その事と相俟って、愛染明王に対する尊崇の念は前代にも増して昂揚したのです。

 

さて以上の事から推察されるように、不動・愛染二明王の親近性を直接教理的に裏付ける根拠は殆んどありません。此の二明王が接近して宛(あたか)も相補的な一対の尊格であるかのように考えられるに至った背景を理解するには、先ず不動・降三世(ごうざんぜ)二明王の関係についてよく知る必要があるのです。

 

平安時代の初期以来我が国に於いて受容され発展した両部密教に於いては、初めに述べたように不動明王が胎蔵部の忿怒尊を代表し、一方金剛界の教令輪身は降三世明王によって代表されました。『初会(しょえ)金剛頂経』四大品(しだいぼん)の一つとして降三世教令輪が説かれていますから、金剛界の忿怒尊は専ら降三世明王によって代表されたのであり、此の事に異論をさしはさむ余地は無かったと云えます。又金胎両部を通じて云えば、不動尊が教令輪身の総体を代表しました。此の事は東寺講堂の五大明王像の中尊が不動であり、降三世は東方の明王に配当されている事を考えれば、平安初期以来の暗黙の了解があったと考えられます。一方、両部の教令輪を不動・降三世の二尊が代表する事は、尊勝(仏頂)法を修する時に本尊として道場に掛けられる「尊勝曼荼羅」が端的に示しています。尊勝仏頂は「仏頂尊勝陀羅尼」の希有(けう)なる功徳(効験)を尊格に表現した仏であり、その曼荼羅に於いては下方向かって右に三角火輪内の不動明王が、向かって左の半月風輪内に降三世明王がそれぞれ大きく描かれていて(左右反対の場合もあります)、これら二尊が胎蔵・金剛両界を代表する教令輪身である事が示されています。

 

このように不動・降三世の二明王を以って金胎両部の教令輪とする事は至極当然の通説と成っていましたから、鎌倉時代後期に至っても表面上は教理的改変が生じた訳ではありません。しかしながら不動尊が平安時代を通じて僧俗の間で変わらぬ帰依信仰を集めたのに対して、降三世明王に対する単独の信仰が興隆することは遂にありませんでした。従って鎌倉時代になると忿怒尊を代表する二明王として、降三世の替りに不動に匹敵する別の強力な明王を求める強い心的傾向が生じたと推測されるのです。それに応えることが出来る尊格は唯一愛染明王だけであったと云えます。愛染王は金剛界曼荼羅に存在してはいないのですから、勿論教理的に愛染王を以って金剛部の教令輪身を代表させる事には無理があります。しかし鎌倉時代後期になると不動・愛染両尊を一対の相補的な忿怒尊と捉えた各種の口決・図像・道具類が多く製作されるようになり、実際の通俗的な世界では不動・降三世に替って不動・愛染が金胎両部の忿怒明王に成って行ったと云えるでしょう。

 

そのような作例の中で最もよく知られているのは日蓮上人が構想・創案した所謂(いわゆる)「大曼荼羅」です。今日上人真筆と考えられる「大曼荼羅」の遺品は百二十幅余り現存しているそうですが、文永八年(1271)、或いは同十年に上人が始めて是を図顕した時から悉曇(しったん/梵字)を用いて画面の左右に大きく不動・愛染二明王が配されていました。両尊の悉曇文字は縦に長く引き伸ばされた異形字で書かれていますが、向かって右がカン(ham)字、向かって左がウーン(hum)字であることは比較的容易に判読でき、日蓮門徒の間に古来相伝された口伝によって右は不動明王、左は愛染明王とされています。

 

次に多くの作品が現存する例として仏像や舎利容器を納める厨子があります。即ち厨子の内側に左右相対して不動・愛染が描かれているものです。厨子の本尊には大日金輪(きんりん)・如意輪観音等の仏菩薩や仏舎利・五輪塔・火焔宝珠等様々ありますが、特に遺例が多く注目すべきものに如意宝珠に見立てた仏舎利容器を納める厨子(ずし)があります。平安時代末葉に特に醍醐寺に於いて仏舎利を駄都(だど)と称して如意宝珠と同体とみなす口伝が成立して、鎌倉時代には仏舎利を納めた水晶玉を如意宝珠に見立てて工夫を凝らして荘厳した各種の舎利容器が製作され、それらを納める厨子の左右の扉裏側や奥壁に不動・愛染二明王を描く事が大変流行したようです。

 

如意宝珠に見立てた仏舎利容器を納める厨子に愛染・不動両尊が描かれている事には特別な背景があると考えられます。それは西大寺の興正菩薩叡尊が創案した秘密修法である「如意宝輪華法」の趣旨に応じた荘厳であるようです。叡尊は鎌倉時代の戒律復興運動に於ける巨星として一般に知られていますが、密教の方では「古流の三宝院」と称すべき醍醐の松橋流を本流として秘密修法にも堪能な人でした。正元二年(1260)正月に叡尊は、宮中の年中行事である真言院後七日御修法を模して西大寺に於いて如意宝輪華法を始修し、以後西大寺の正月恒例行事に定めました。此の法は近世江戸時代には既に断絶していたようですが、その修法次第は醍醐の駄都法に愛染・不動両尊の法を合揉(ごうじゅう)した特殊な新案の法であり、その本尊が左右扉内側に不動・愛染二明王を描いて中に駄都(如意宝珠)を安置した厨子であったと思われるのです。

最初に述べた愛染・不動合体尊が、最初誰に依って何時頃描き顕されたのか、本より確かな事は分かりません。しかし両明王を以って両部の教令身とする通説の流行と鎌倉時代後末期以降の真言事相に於ける自由な風潮とを考えれば、この様な風変わりな尊像が生まれるのも自然の成り行きであったと云えるでしょう。



. 馬陰蔵(めおんぞう)三摩地の事

 

此の一風変わった名称は、『瑜祇経』の「染愛王品」第二に出ます(染愛王品は詳しくは「一切如来金剛最勝王義利堅固染愛王心品」と云います)。即ち同品の冒頭に、

 

爾の時世尊は復た馬陰蔵三摩地に入りたまえり。

 

と云い、続けて此の三昧の内実に関する説明の文があります。馬陰蔵とは牡「馬」の生殖器官である「陰」茎部が腹部に「蔵(かく)」れるという意味ですが、中古以来現在に至るまで何故に染愛王の三昧に「馬陰蔵」なる名称が用いられているのか定説が無く、『密教大辞典』の同項の説明等を読んでも多分に要領を得ないと云えるでしょう。因みに同辞典の「馬陰蔵三摩地」の項に於いては、頼瑜法印の『瑜祇経拾古鈔』上の解釈を参照して、

 

馬陰蔵とは馬の陽根腹中に陰蔵せる義にして、自身に菩提心を発し自心に能く証悟すること、譬えば馬の欲念を生ずる時は根を出だし、欲息(や)めば自ら根を陰蔵するが如し。

 

等と述べていますが、これでは「馬の陽根」と「菩提心」との相関に付き前後の文意不通と云わざるを得ません。

 

古来の真言密教の名匠が理解に苦しんだのは多分に馬陰蔵なる名称がそのまま三摩地の内実を示していると考えたが為であり、実にはただのネーミング(名づけ方)の問題であってそれ程難しく考える必要は無いのだと思います。その事を理解しやすくする為に、先ず馬頭観音(明王)の場合に付いて考えて見ます。馬頭法に関する三宝院流の口決に依れば、馬が野原で草を食する時にはその事に没頭して他に余念が無いように、此の明王は衆生の救済という誓願を実行する他には余念が無いのである、とされています。ここでは食欲旺盛なる動物の代表として馬が用いられていますが、馬陰蔵三昧の場合は性欲が特に盛んな動物として馬を使っています。即ち先ず発情期の牡馬が雌馬を求めて興奮し、陰茎部が大きく露出している状態を散乱心の極致にあるとします。そうするとその対極にあるのは、医学的にはあり得ないかも知れませんが牡馬の陰茎部が腹内に隠蔵された状態であり、これを以って最寂静の境地である極深定の三摩地を表す言葉としたのです。

 

次に馬陰蔵三摩地の内証に付いて、「染愛王品」ではどのように説明されているかを見てみましょう。同品は最初に引用した冒頭の文に続けて、

 

一切如来は幽隠・玄深・寂静、熾燃光明・勇猛忿怒威峻にして、師子吼の音は震動し、電掣の天鼓自ずから鳴る。香象王声、大金剛声、大商佉(しょうきゃ/ほら貝)声、是の如きに等しき声を作せり。

 

等と云います。此の三昧の極めて特異なる点は、常の如き幽玄なる寂静の境地でありながら、同時に一方に於いて熾(さかん)に燃え盛る炎の如き大忿怒の境地に住している事です。このように常識的には理解するのが困難であるにしても、「寂静」と「忿怒」という一見相反する二つの境地に同時に住する事を何とか視覚的に表現しようとしたのが所謂(いわゆる)両頭「愛染王」像ですが、正確にはその典拠に従って「染愛王」像と云うべきです。



(今後も更に記事を連載します)